さくらさんはきれいだ。
ちら、と少し目が合うだけで、僕は心臓を射抜かれたような気持ちになる。
そんなさくらさんと同じ部屋で暮らし始めてからというもの、僕の日常はまるで大輪の花が咲いたかのように、くすんだ色から、鮮やかな色に塗り替えられたのも事実だ。
こんな毎日がずっと、ずっと続いていくのなら、僕の人生はなんて素晴らしいと思うくらいなのです。大げさではなくて、本当にそう思ってやみません。
ただここ最近、僕はどこかおかしいのではないか、と思い始めているのも、また事実なのですが…。
それは、ある夕食の時のこと。
その日、さくらさんは初めて作ったという肉じゃがを振る舞ってくれた。
「肉じゃが、初めて作ったのよ。おいしく出来たかしら…」
「もっ、もちろんだと思いますよ。初めてだとは到底思えないくらい」
僕はもちろん、嘘なんかついてはいない。本当に、おいしいだろうと思って正直に答えたのだ。でも…。
「じゃあ、ひと口食べてみて、」
さくらさんは、じゃがいもを盛った箸を僕に向けた。あーんして、と言われなくたって、僕は口をあーんと開けて、身体をさくらさんへ倒していった。そして…。
僕の口が触れる。さくらさんの使った箸に…。
僕は、今口の中にあるじゃがいもの味よりも、さくらさんの使った箸の味のほうが、妙に僕の味覚神経を刺激しているように感じた。
もちろん、さくらさんが初めて作った肉じゃがのじゃがいもの味だって、後から考えたってたまらないくらいなのに。
そして、目を閉じると浮かんでくる、僕にじゃがいもを差し出したときの、さくらさんのあの手つき、そして表情…。
どっちを取っても、僕の意識はどこか、遥か遠くのほうへ飛んで行っているのではないか、と僕は思わずにはいられなかった。
「どうしたの? 一作さん」
何でもないです、と慌てて僕は首を横に振った。
僕は何を考えてるんだ。どうするんだ、悟られたら。どうするんだ。
そのときは、とてもではないけどさくらさんと目を合わせることは、できなかった。
そして、また別の日の朝のこと。
「じゃあ、終わったら教えてください」
僕はそう言って部屋を出た。さくらさんが着替え終わるまで、中庭で待つことにしたのです。
僕は縁にでも座って、取り出した一本のタバコに火を点けた。
ふぅっ…と煙を吐き出して一息ついた僕の脳裏に、またいつものようにさくらさんが現れる。
僕のほうを振り向いて、笑顔を振りまいたさくらさんは、いつものように白いブラウスと茶色のスカートを着ていた。
さくらさんの笑顔は、眩しいくらいに素敵だと何度でも思う。その笑顔に、僕の視線は釘付けになる…はずなのに…。
でも、どういうわけか。僕の視線は、さくらさんの顔を下りて、あの細くてきれいな首を下りて…。
僕の視線はそこで止まった。そして、さくらさんの笑顔を眺めていたときよりも長く、釘付けになっていた。そう、さくらさんの白い、ブラウスの胸元に…。
いけないと思いつつも、抑制が全くきかない。そしてもっといけないことに、僕はそのうちに、見とれてしまっていたのだった。想像の中のさくらさんは、そんなことなどつゆ知らず、ずっと僕のほうを向いて、微笑みかけている。
僕にじっと見られていることに気が付いていないのかな。それとも、僕がいることすら、わかっていないのかな。どちらにしろ、少なくとも心の中では、激しい葛藤に苛まれているのだ。誰かにしゃべったら、大笑いされそうだけど。
それでも僕は単純に、あの胸に包まれていたら温かそうだなあ、などと考えていた。僕は、大きいとか小さいとか、あまりこだわらないのかもしれない。でも、どちらかと言えば大きいほうが…。いけない。さくらさんにこんなことを悟られたら、いや、もうすでに、悟られていたって絶対におかしくないでしょう。
だって、こんなにも夢中になっているのだから…。
「一作さん、入ってもいいわよ」
僕は、さくらさんに呼ばれているどころか、タバコがなくなりかけていることにすら、気が付いていなかった。
「一作さん!」
さくらさんが僕のほうへ駆け寄ってきて、初めて呼ばれていることに気付いて振り向いた、そのとき…。
「アチッ!」
たまったタバコの灰が、僕の膝の上にぽとん、と落ちたのだ。たまらず僕が立ち上がると…。
「きゃっ!」
つまづいてしまったさくらさんが、僕の上にどさっと倒れ込んだ。当然支えきれず、僕はさくらさんと一緒に勢いよく砂利の上に倒れてしまった。
「あいたたた…」
頭をさする。倒れたときに強くぶつけたらしい後頭部が、やけに痛かった。けど、温かいぬくもりが、僕を包み込んでいく。そう、頭の痛みなんか忘れさせてくれるようで。
それに…。この…とても言葉では言い表せられないほどの心地いい感触は、さっきの想像の中では、絶対に味わうことなんて出来ない。ずっと、このままでもいいとすら思えたのだった。
僕は、この状況などもはや、どうでもいいように思えていた。
しかし、それはやっぱり小さな幸せだから、長くはもたないわけで…。
はっ! と飛び上がるようにさくらさんは、僕の上から身を離した。
「あっ…ごめんなさい! 大丈夫? 一作さん」
「はい…大丈夫です」
上体を起こそうとする。その途端に、後頭部に再び痛みが襲ってきた。頭を抱える僕を、さくらさんはとても心配してくれて、あとで手厚く手当てをしてくれた。なのに僕はといえば…。
それからその日はずっと、朝のあの出来事が頭から離れることなく、僕はさくらさんとまともに目を合わせることすら、できなかった。
当のさくらさんは、僕の様子がおかしいのは、頭を打ったせいなのではないか…だなんてしきりに気にしていてくれたのに…。僕は一体、何を考えているんだろうと思うと、恥ずかしくて、そして何よりも申し訳なくて、もう逃げ出してしまいたくなって…。
そんなことが何度かあったけれど、僕がどこもおかしくない、と知ったのは、それからそんなに経たないあとのことだったのだったのです。
もちろん…、誰に言われるでもなく、自分で気が付いたことですが…。
2013/09/29